こんにちは。あそビート 中の人1号 ばばたまです。

今日は新井紀子教授のTED『ロボットは大学入試に合格できるか?』に衝撃
を受けたので、まだご覧になっていない方にはぜひ見ていただきたいなと
思ってブログを更新しました。

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で、私がここであれこれ書くより、新井先生のお話が百万倍面白いので見てください。

終わりか!!

 

結論から先に言えば、ロボットは東大には合格できません。
但し、日本の6割の大学には合格できます。わぁお。
ロボット優秀。。。

でも、新井教授はこの現実に懸念を抱かれています。
「どうしてこの知性を欠いた機械が、人間の学生を、私たちの子ども
を凌駕できたのでしょう」

と、はっきりおっしゃっています。

個人的に感じたことはAIの発展が、このままの学校教育ではいけないのだという
ことを、示唆しているような気がしたのです。
今までは、まさに優秀なAIのような人が「優秀だ」とされていたと思うんです。

たくさんの知識を持っていて。
質問に対して、その膨大な知識のなかかから最適な答えを引っ張りだしてくる。

それが、「頭にいい人」いわゆる「試験に合格する人」だったと思います。
もちろん「知識を蓄積する」ことを否定しているわけではありません。
知識がなければ、最適な解を導きだすことはできない。
知識がなければ、そもそも考える材料がそろわない。

でも、『それだけでは限界がくる』ということは、この新井教授の講演を聞けば
よくわかります。

人であれば、特殊な勉強をしていなくても、講演の中で出てくる英文会話の
穴埋めは難しくないと思います。
でも、ディープラーニング(深層学習)をして150億個の英文を読んでも
コンピューターは正解を導きだせない。

そこに「人が人であることの意味」があるような気がしました。

そして、ぞっとしたのはAIの発展の話ではありません。

最後に出てきた「文章問題の中に正解が書いてあるにも関わらず、3分の1の中学生が
答えを間違える」という現実。

子どもたちをAIと競わせるのではなく。→膨大な情報からの検索と最適化は勝てない。
AIがそもそも越えられない、人としての能力、人でなければならない能力を鍛えるための教育が
必要なのではないかと強く感じました。



ゴールデンウィークも終わり、今週から通常運転モードですね。でも、あまり頑張りすぎると体調崩しますので、ゆるっと自分の心と身体のバランスとりつつ、今週はセーフモードでいきましょう!(笑)
あそビートのフェイスブックページにたくさんの方がご訪問ください、「いいね」もたくさんいただきました。本当にありがとうございます。それなのに、ブログ更新が5月1日からぴたりと途絶え・・・

申し訳ありません。(中の人、生きてます)

今日からまた地道に更新していきますので、ぜひぜひチェックをお願いします。
近日、あそビートの新しい動きやイベントなどのお知らせを・・・できるように鋭意頑張ってまいります。

さて。

イクメンの夫がうらやましい地獄。

に、とらわれて、苦しんでる方はいませんか~?

なぜ、うちの夫は育児に協力的ではないんだろう。
なぜ、私ばかりが仕事も育児も・・・
いいなぁ、〇〇さんのお宅は保育園の登園にパパさんがいつもきてくれて。
いいなぁ、××さんのお宅は行事にいつもパパさんが参加してくれて。
あーあ・・・△△さんのお宅は、パパが休日はお子さんを遊びに連れて行くの!!うらやましいわ。
えっ!ごはん作ってくれるの?パパが?すごい!!

はい、すべて数年前の私の心の叫びです(笑)

最近では母親1人で子育てを回していくことを「ワンオペ育児」というみたいですが・・・

我が家は「平日母子家庭」でした。(というか、今も)
もっと育児に関わって欲しい。もっと家事を手伝って欲しい。イクメンの話題なんてニュースや雑誌で目にしようももなら、もう「キーーーーーーーーーーーーーー」となっていました。(テレビを叩き割り、雑誌は破り捨てる勢い)

お互いに妥協点の見えない、不毛な喧嘩もしました。険悪になり消耗するだけで何ら生産性のない戦い。

ここ、お子さんが1人か2人か・・・ということで全く事情も異なると思うのですが、私はどうしたかというと「イクメン」という概念を自分の中から消した。空想上の生き物であると。(笑)

子どもが1人なので、ワンオペでもなんとか回すことはできたんです。夫が稼いで生活費さえ入れてくれたら(笑)
というと「そんな極論!!家族を養うのなんて当たり前でしょ!!」とお叱りをうけそうですが・・・

でもね。稼ぐのだって楽じゃない。昭和47年生まれの私の考えは古いかもしれません。が、会社の中でそれなりに存在感を出して(リストラされないように)、お給料をしっかりもらえることって、やっぱり甘くない。そんなブラックなと言われるかもしれないけど、ある程度仕事を中心にしっかり働かなくちゃ、周囲からの信頼を勝ちとることだって難しい。

私自身、サラリーマンだったからわかる。わかるんです。

子どもを迎えに行きますから帰ります。って、男性なら女性よりもっと言いにくい。
それ、わかるんです。いい悪いじゃなくて、それが現実。

もちろん、イクメンやりながら会社でもしっかり結果を出すパーフェクトヒューマンだっていると思います。それが許される社会や会社を作っていかなくちゃいけないこともわかるんです。でも、残念ながら現実はそんなにすぐ劇的には変わらない。
イクメンもいれば、イクメンじゃない人もいる。
私の夫はイクメンにはなれなかった・・・・ただ、それだけです(笑)

おそらく今は過渡期。過渡期には、夫はイクメンにはなれなかったことで悩み、苦しみ、葛藤する妻だってたくさんいるはずです。

そんな私に勇気をくれたのは、西原理恵子『毎日かあさん』の中のこんな台詞。(第2巻より)

こんな苦労が男にできるかバカヤロウ。人生は女の方が絶対楽しい。」

私の座右の銘です。



こんにちは。あそビートのばばたまです。

突然ですが『育児書』って読みますか?私は、産後、赤ちゃんについて知識がなさ過ぎたため、いろいろ買って読み漁りました。(発達心理学は学んでいたものの、生後0か月→1カ月→2か月・・・なんて短いスパンでの成長についてどうなのかなんて全くわかっていませんでしたから・・・)

岩波書店から出ている、有名な松田道雄先生の『定本 育児の百科(全3冊)』も読みましたし、重くて厚いことで有名な『シアーズ博士のベビーブック』も読みました。

はい、わりと形から入るタイプです(笑)

子どもがいる家庭では加入率が結構高いパ○システムにも入っていたのですが(当時)、またこのパ○システムのチラシがものすごい量で。図書なんかも毎週いろんなラインナップがあって、育児書もいろいろ薦めてくる。

お母さんための○○ とか 男の子をもつお母さんへ○○ とか ○○お母さんのための×× とか・・・ありとあらゆる角度からせめてくるんですよね。

それだけ読み漁った私はどうしたかというと・・・

育児書は捨てた。

はい。もう、結局、子どもをどう育てたいかは親が決めるしかないんだなと思ったので。
いろんな育児論があって、いろんな先行研究もあって、いろんな事例があって、いろんな育児法があるなということはよくわかりました。でも、どれもそこに出てくる子どもは「私の息子ではない」ということ。

そして、何より育てているのが「私自身だ」ということ。

選択肢を豊かにするという意味で、育児書を読むことは無駄じゃない。諸先輩方のアドバイスや体験談を聞くことは無駄じゃない。でも、最終的に決めるのは私だ、と気づきました。

加えて、息子は7カ月から保育園に通いはじめたのですが、そうなると保育園が心のよりどころ。先生たちには本当に母子ともに支えてもらい、助けてもらいました。子どもを間に挟んで、いろいろ話していくことが一番の方法だなと感じました。

そんな私ですが、一つ心に残して支えにしているある育児書の教えはこんなことです。

親の子育てが理論的に正しいか間違っているかは、実はそれほど問題ではない。
親が子育てに自信を持っているか、あるいは過度の不安を抱いているかの違いが、子どもの人格に影響をあたえる。

人に自慢できるような子育ては何一つしていませんし、実際、小学校入学後1年の間にいろんなことがあったので情けなくって泣いたこともしばしば。でも、私は私の信念に基づきその時のベストは尽くしている・・・ということだけは言い切れます(笑)
どんなお母さんだって、「子どものため」と一生懸命。だから、そんなに間違うことなんて、ないんですよね。自信もって自分にあった情報の取捨選択しちゃいましょ~

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という非常にいろんな方を敵に回しそうなタイトルにしてしまったことに若干不安を覚えつつ。
いや、学べると思うんですよ?

↑ じゃあなんでそんなタイトルにした。

1.スポーツの目的とは

スポーツって「勝つ」ことが目的ですよね。基本。
勝つためには、まず、チームワークうんぬんより、そのスポーツに必要なことを身に付けて、ある一定のレベルに達する必要がある。基本的なことですが、ルールを覚えて、例えばサッカーならドリブルの方法とか、シュートの仕方とか、リフティングとか。。。そういう基本的なことができないと試合に出られない。

そう考えると、スポーツでチームワークを学ぶには、テクニックがある一定ラインに達してからなのかと気づいたのです。

そう思ったきっかけは、ある友人の心の叫びでした。

「小学生のサッカーチームなら、チームワークうんぬんより圧倒的に上手いスター選手が1人か2人いれば勝てるの。その方が強いの、勝てるのよ・・・。小学生くらいのうちなら、まだ。。。」

うちの息子はサッカーや野球等の、いわゆる「団体競技」のスポーツに興味を示さなかったのでやらせていません。だから、私は小学生のサッカーと野球の事情に全く詳しくなく、単なるイメージで「団体競技をやってるとチームワークが学べるものだ。」と思っていたし、漠然と「チームワークがしっかりしていないとそもそも勝てないのだ」とイメージがあったんです。ただ、よくよく聞くとそうでもないようで・・・
(そういえば別の友人からも似たような話を聞いたことがあります。)

しかし、子どもの習い事でスポーツが人気であり、かつ、スポーツが好まれる理由の中に「チームワークを学んでほしい」みたいな希望が多いことを考えると・・・それはもしかしたら親の希望と実際得られるもののミスマッチが起こっているのでは?と思ったのです。

2.スポーツはあくまで技術の習得ありき

基礎体力の強化や健全な身体作り、身体能力を鍛える・・・などは、どのお子さんにも間違いなく身に付くと思います。が、「チームワーク」が学べるかどうかは、スキルが一定水準に達するかどうか(試合ができるくらいのレベルになれるかどうか)という前提条件がくっつきそうです。

例えば、うちの息子のように運動音痴の子がサッカーチームに入っても、チームワークを学ぶ前にまずシュートを打てるようになれと言われて、なかなか前に進めそうにありません。(←注:わが子の可能性を信じましょう)

もちろん、それを乗り越えてこそのスポーツですし、当然指導する側も「順を追って」進めているのだからそれは全く問題だとは思いません。
物事には順番があるのだから。

ただ、「チームワークを学ばせたい」と期待してスポーツチームに入れた時。場合によっては、そこに行きつく前に子どもが辞めてしまうこともあるのではないか・・・ということを言いたかったのです。つまり、チームワークを学ばせることは「メイン」ではない。まずは、そのスポーツの技術を習得することありき、ということです。

あそビートは、「チームワークを学ぶこと」がメインになります。
しかも「遊び」を通して。
太鼓などの楽器を使いますが、太鼓を上手に叩けるようになることが目的ではありませんし、他人と比較し優劣を決めるようなことはありません。
スポーツではチームワークが学びづらいな・・・と、思ったお子さんはぜひあそビートに参加して欲しいと思います!

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こんばんは。結局、お天気のすっきりしない週末でしたね。
せっかくの桜も、この寒さの中散り始めて・・・なんだか寂しいです。
散りゆく桜を惜しみつつ、後少し桜を楽しみたいと思います。

さて、えーと・・・今日は、ブログ・・・ちょっと手を抜いてもいいですか?(笑)

いや、手を抜くというか。今日は、私が心をうたれた詩をご紹介したいと思います。と、いっても有名な詩のようなので、すでにご存じの方も多いと思います。ネットを検索してもいろんな人たちがこの詩を子育てと絡めて紹介しています。
私は、知らなかったんですけど。。。(^^;

妊娠して10か月間。お腹の中にいた時が、一番息子と私が近かった時でした。(ていうか、文字通り一心同体)
出産と同時に、私と息子の距離はすごい勢いで離れていくなぁ・・・と思っていました。
そして、その距離は離れることはあっても、もう縮まることはないのだという感覚がありました。
私は、この詩を読んでその感覚がどういうことであるのかを、改めて認識しました。ああ、こういうことだ。と。

とはいえ、詩の感じ方は人それぞれ。
あれこれ解説しようとするなんて、野暮ですよね。
みなさんはこの詩を読んでどんな風に感じられるのでしょうか。

 

レバノン人の詩人 ハリール・ジブラーンの詩

「こどもについて」

あなたの子どもは、あなたの子どもではありません。
彼らは生命そのものが望んだ息子や娘なのです。
あなたを通ってやって来ますが、あなたからやって来るのではありません。
あなたといっしょにいますが、あなたのものではないのです。
子どもに愛を注いでもよいでしょう。でも、考えを与えてはいけません。
子どもには子どもの考えがあるからです。
あなたの家に子どもを住まわせてもよいでしょう。
でも、その魂を住まわせてはいけません。
子どもの魂は明日の家に住んでいて、あなたは夢の中でさえ、そこに立ち入ることができないからです。
子どものようになろうと努めてもよいでしょう。
でも、子どもをあなたのようにしようとしてはいけません。
生命は後戻りせず、昨日とともにとどまってもいないからです。
あなたは弓です。
その弓から、子どもは生きた矢となって放たれます。
射手は果てしなく続く道にある的を見つめ、矢がすばやく、遠くへと飛んでいけるように、力いっぱいあなたをしならせます。
射手の手の中でしなることを喜びましょう。
なぜなら、射手が、飛んでいく矢を愛しているなら、同じようにとどまる弓も愛しているのですから。

 

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昨日のブログを少し引っ張ってみます。

息子に足りなかったものは「コミュニケーションだ」と言ったのですが、そもそもコミュニケーションってなんだろうということを、あそビートを立ち上げる時何回も話し合いました。

コミュニケーション能力ってなんだ?と。

1.親たちが考える、いずれ社会に出ていく子どもたちに身に付けて欲しい力とは

あそビートのプログラムを考える時、100人を超えるいろんな方々にアンケートに答えていただき、「社会に出るまでにお子さんに身に付けて欲しい能力はなんですか?」と聞いたら、実に7割以上の方が

・他人と協働することが出来る力
・自分の伝えたいことを正確に伝える力
・思いやり

この3つがあげられました。

そして、この3つが身に付いているこということは・・・結局、コミュニケーション能力が高いということなんではないか?という方向に話がまとまったのです。

辞書的な意味でコミュニケーションを調べると、実に本当にたくさんの定義が出てきます。
辞書によっても当然ですが様々です。その中で『世界大百科事典 第2版』からコミュニケーションの定義が語源も含めてちょっといいなと思ったので抜粋します。

もともとは〈ある所(の生物や無生物)から別の所(の生物や無生物)へエネルギー,物体,生物,情報などが移動し,その移動を通じて移動の両端に,ある種の共通性,等質性が生じること〉をいう。
ただし普通には〈人(送り手)から人(受け手)への情報の移動〉,もしくはその移動の結果生じた〈心のふれ合い〉〈共通理解〉〈共同関係〉などを指すことが多い。

【用語と範囲】
communicationの語根はラテン語のcommunisで,〈共有の〉とか〈共通の〉〈一般の〉〈公共の〉というような意味をもつが,〈コミュニケーション〉にぴったり相当する日本語はなく,使われている文脈に応じて用語が選ばれる。

2.「コミュニケーション」は文脈によって異なる意味を持つ

だから、コミュニケーションという言葉を使った時、その時その時に応じていろんな日本語が使われるわけだ。なるほど。と、納得しました。単に「情報伝達」っていう意味でつかわれることもあるし、「心と心の触れ合い」の意味でつかわれることもありますよね。

エネルギーを移動させ、その両端に共通性、等質性を生じさせる・・・っていうのがなんかしっくりきます。

つまり、両端(まぁ、多くは人と人同志ですよね)に「共通性」「等質性」が生まれてないとコミュニケーションではないし、それが上手くいってなければ「他人と協働作業はできない」し「自分の言いたことも伝わらない」わけです。
そして、それが成立するとき、そこには相手に対する配慮や敬意・・・つまり「思いやり」が絶対あるはずだ。と。

私たちの考えるコミュニケーションはTEDのようなプレゼンテーションスキルのことではありませんし、他人を論破するようなスキルではありません。

もっともっと、人と人とのつながりの根っこの部分。
そのコミュニケーションに焦点を当てています。

自分のことを分かってもらうとする努力。
相手が何を伝えたいと思っているのか理解しようとする優しさ。
1人として同じ人間はいないからこその、コミュニケーションの難しさ。それを乗り越えるための「人間力」みたいなことです。

詰まる所、それが人生においてぶつかるいろんな問題を解決していく…究極の課題解決能力なのではないか?というところにいきあたりました。

本来子どもたちはそれを「遊び」の中から身に付けていくのだと思っています。もっともっとたくさん「よく遊び、よく学べ」子どもたち!!

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本日より、新学期。入学式。というところも多いのではないでしょうか。
わが息子の通う小学校も今日から新学期。クラス替えと担任替えでドキドキです。ええ、どんな先生が担任になるかでその1年の明暗が分かれます。

主に・・・私の。

1.学校社会の洗礼を浴びた親子

うちの息子は超がつくマイペース、そして自由人です。さらにお調子者です。
そんな彼をのびのびと温かく育んでくれた保育園から一転、学校社会へ。
担任の先生は秩序を重んじる真面目なタイプ。入学して1カ月たつかたたないかのうちに、まず第一回目の呼び出し。

『保育園の時の様子や、ご家庭での様子をぜひ詳しく伺いたいと・・・』

ひぃぃぃぃぃぃ。

先生の指示に従わない。
落ち着きがない。
自分のペースで行動することが目立つ。
自分の考えを言いすぎる・・・?等が主なご指摘事項でした。

とにかく学校に目をつけられたくなかったという気持ちもあり「すみません。よく言い聞かせます。」と平謝りしていた1学期。その後、夏休みを経て2学期・・・息子の様子、他のお友達のお母さんを通じて入ってくる情報を組み合わせていくと、私の心の中にちょっとした違和感と、ちょっとしたモヤモヤ感が立ち込めるようになってきました。

2学期も半分過ぎたある日、息子が2週連続で洗濯する給食当番衣を持ち帰ってきました。通常、給食当番は1週間交代なので2週間連続で持ち帰ることはないのです。連絡帳には先生の字でこう説明が書いてありました。

←コレです。懐かしいですよね。

『前の週の給食当番の時、配膳の仕事はやったものの、食べ終わった後の片づけをやらず掃除に行ってしまっていたことが他の子ども達の話からわかり、今週も給食当番をやってもらいました。』

・・・つまり、後片付けをさぼったので、給食当番をやり直しになったということのようです。

これは私もほっておけないと思い、なんでそんなことをしたのかと息子に事情聴取しました。そうしたら、ちょっと予想外の回答が戻ってきたのです。

「だってさ、配膳の時は仕事があるけど、後片付けはあんまりないから、俺、やることなくなっちゃうんだ。だったら掃除に行った方がいいと思って、掃除に行ったんだ。」

そこで、私は思い切って、担任の先生にそのことを説明しました。
後片付けをみんなと一緒にやらなかったのは悪かったかもしれません。でも、彼は単にさぼったわけではないということを、伝えたかったのです。親バカなので庇いたかったのです(笑)

担任の先生の回答はこうでした。

「なるほど。そういう事情があったのですね。・・・でも、給食当番を割り当てられている以上、みんながやっているときは同じことをやらないと・・・。」

2.学校社会の掟「みんなで一緒に」

私の中の違和感の正体がなんとなく見えてきました。

「みんながやっているのだから、あなたも同じようにやらないと。」

この考え方が私の胸の中をかき乱すのです!!

例えばこれが会社だったなら、どうでしょうか?
プロジェクトメンバーに仕事が振り分けられた。ただ、ある業務にアサインされた人が多すぎて自分はやることがない。じゃあ、まぁ、いいや・・・となんとなく仕事をしている風にしてやりすごすより、「手が空いています」と言って自分のやれることを見つけて動く人の方が評価されるはず。

でも、学校だと違うのです。きっと、無駄にお盆やお皿をわけて持っていったり、1人で持てるものを2人で持って行ったりして「給食当番としての仕事」をみんなで一緒にやることが評価されるのでしょう。これを会社でやると「1人で出来る仕事を無駄に大人数でダラダラやりやがって」ということになるのに。

会社では「生産性」「効率性」が叫ばれているというのに。(ま、これはこれでね。効率効率ってうるせえなって時もありますけど)

学校で是とされることと、社会に出てから求められることにはズレがある。

そう思ったら新社会人が「自分の頭で考えられない」とか「指示待ちで自分から動けない」とか批判されるのが可哀そうになりました。だって、学校社会で評価されるのは「自ら動く」よりも「指示に従う」ことなのですから。

もちろん、学校には学校の掟があるでしょう。
団体行動の中で我慢することを覚えなければいけないことも大切だと思います。

が、私は思いました。学校社会の中で評価されることが息子の幸せではない、と。

むしろ、学校社会の中では多少はみ出したり、注意される回数が多くなったとしてもその先の「社会」で生きるための知恵もしっかり教えていかないといけない、と。

ということで、私が息子に伝えたのは「今回の件であなたがよくなかったところは、一緒に給食当番をやっているお友達に『他に俺がやる仕事はないか?』と確認をしなかったこと。自分だけの判断で勝手に掃除に行ってしまったこと。ここだよ。きちんとお友達や先生に確認をして、それで俺は掃除に行きますと伝えればこんなことにはならかったのよ。仕事っていうのはそうやって進めるんだよ。」ということでした。

彼に足りなかったもの。それは「コミュニケーション」だったと思うのです。

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